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  ヨーロッパの世界遺産 (日々追加中)

シンクヴェトリル国立公園(アイスランド)

シンクヴェトリル付近は、大西洋中央海嶺の地上露出部分であって、ユーラシアプレートが東に北米プレートが西に広がっている。そのため各地でギャオと呼ばれる大地の裂け目が見られ、独特な岩肌を眺めることができる。近隣の都市としては、40キロ南西にレイキャヴィーク、45キロ西にアクラーネスが位置している。
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ブルー・ナ・ボーニャ - ボイン渓谷の遺跡群(アイルランド)

アイルランドのボイン川の屈曲部に位置する新石器時代の石室墳、立石、その他先史的遺跡群の複合体で、国際的にも重要なものである。時代が下ると、鉄器時代には墓地として使われ、中世にはノルマン人が入植した。また、1690年にはボイン川の戦いの舞台にもなった。
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シケリグ・ヴィヒール(アイルランド)

アイルランド島の西方ケリー州の沖合16キロメートルに位置する面積0.18平方キロメートルの急峻な岩山からなる孤島。西暦588年に標高218メートルの島の山頂付近にケルト人により修道院が建てられたという説があるが、確かな記録はない。1996年にはユネスコの世界遺産に登録されている。
島の位置とその急峻さにより、現在にいたるまで修道院はその原型を良くとどめている。アイルランドにおける初期キリスト教の僧侶たちは垂直に切り立った崖の下に、石を積み上げてつくった小屋で暮らしていた。
スケリッグ・マイケルの修道院は、823年のヴァイキング襲来にも耐えて西暦1000年前後には教会が拡張された。遅くとも1044年までに聖ミカエルを祀る修道院になったとみなされる。その後100年ほどして施設は放棄され島には人が住まなくなった。
西暦1500年頃になると毎年海が穏やかになる時期を見はからって巡礼が訪れるようになる。1826年には灯台が建設され、1986年には一部の建築物の修復が行われた。しかし、近年観光客の増加により遺跡が損傷していることから、島への渡航が制限されるようになっている。
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ブトリント(アルパニア)

ブトリントは古代ローマの詩人、ヴェルギリウス作の叙事詩『アエネイス』に登場する。それによれば建設者はトロイアの王プリアモスの息子、ヘレノスであり、彼はトロイアの陥落後この地へ逃れてきたという。 この物語がどこまで事実に基づくものかは定かではないが、学術的な調査によってこの地には少なくとも紀元前8世紀には人の定住があったことがわかっている。海峡に接する要地であったこともあり、対岸のケルキラ(コルフ)とともに海上交易によって発展、紀元前4世紀までには防壁を持った都市としての形を成すまでになり、劇場やアゴラ、アスクレーピオスの神殿なども造られた。
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ベラトとジロカストラの歴史地区群(アルパニア)

オスマン帝国時代の町並みが保存されており、2005年に世界遺産に登録されていた「ジロカストラの博物館都市」の拡大登録という形で、2008年に世界遺産リストに加えられた。

ジロカストラでは鉄器時代に遡る陶器が発見され、それが最初に現れたのは青銅器時代後期のエルバサン県パズホクでアルバニア中でこれらは発見されている。ジロカストラ周辺で人が最初に住み始めた記録ではギリシャ人の部族であるハオニア人(英語版)である。
町の城壁は3世紀に遡る。高い石の壁の城塞は6世紀から12世紀にかけ建築された。この間、ジロカストラは大きな商業的な中心として開発されアルギロポリス Argyropolis (銀の都市の意)やアルギロカストロン Argyrokastron(銀の城の意)として知られていた。 メラニテッケ町はビザンティン、エピロス専制侯国の領域の一部となり最初の記録ではアルギロカストロとビザンティン皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスにより1336年に言及されている。 1336年-1418年の間はアルバニア人貴族ジョン・ゼネビシ(英語版)下のジロカストラ公国(英語版)の首都であった。
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ハフパット修道院とサナイン修道院(アルメニア)

アルメニアは、世界最古のキリスト教を国教とした国家として知られる。5世紀から7世紀にかけて、アルメニア使徒教会は教義の解釈や建築面において独自の発展を遂げたが、アラブ人による征服により、その発展は中断を余儀なくされた。

アルメニアの再独立は、9世紀を待たねばならない。ハフパット修道院が建設されたのは、再独立が達成された以降である970年代である。991年には完成したが、度重なる地震が修道院を破壊したのも事実であり、1105年には、セルジューク朝の攻撃を受けた。
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ゲガルド修道院とアザト川上流域(アルメニア)

ギガルド修道院は、301年に歴史上初めてキリスト教を国教と定めたアルメニアでも古い歴史を持つ修道院で、初期キリスト教時代にはすでに開設されていたと伝えられている。アイリヴァンク、すなわち洞窟修道院とも呼ばれ、院域のいくつかは岩盤を穿って造られた洞窟となっている。修道院の名称である「ギガルド」は槍を意味する言葉で、キリストの脇腹を突いた聖槍の一部がここで発見されたことにちなむ。
今日残っている中央聖堂は、1215年から1283年にかけて建設されたものであるが、僧院や礼拝堂、食堂などは、中央聖堂北側に接する岩盤を穿って造られ、天井はイスラーム建築のムカルナスの影響によると思われる鍾乳石装飾で覆われている。僧院内には、十字架を彫った石盤がいたるところに設置されている。
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エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡(アルメニア)

アルメニアは世界でも最も古い文化を持つ国のひとつで、301年には、歴史上初めてキリスト教を国教と定めている。東ローマ帝国とサーサーン朝に挟まれたアルメニア王国は、5世紀になると両国に分割されて滅ぶが、6世紀末には東ローマ帝国のあらゆる場所にアルメニア人のコミュニティが形成され、特に軍の要職はアルメニア人が占めるほどになった。アルメニア人は東ローマ帝国内に社会的優位性を築き、ビザンティン建築においても、その発展に寄与することになる。

スルブ・ガヤネ教会
アルメニア最古の教会建築物は5世紀から6世紀に遡り、その形式はシリアの影響を強く受けたものであった。5世紀のアルメニアの歴史家アガタンゲロスによると、聖堂の建設は、最初の大主教啓蒙者グレゴリオスが、キリストが天から下りて、金色の槌で大地に触れるビジョンを見たことに始まる。彼はその場所、ヴァガルシャパト(現エチミアジン)に大聖堂を建設した。
アルメニア地図


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マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷(アンドラ)

アンドラの南部、アンカム、アンドーラ・ラ・ベーリャ、サン・ジュリアー・ダ・ロリア、アスカルダズ=アングルダーニの4つのパロキアにまたがっており、国土面積の9パーセントを占めている。
岩山や氷河、森林、湖といったピレネー山脈の自然の中に、集落や牧草地、山小屋、鉄の精錬所跡などが点在しており、700年以上にわたって山岳地域の人々が営んできた生活の文化的景観を世界遺産としたものである。
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オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地(イギリス)

オークニー諸島のメインランド島に残る、新石器時代に属する4種の遺跡を対象とする。
保存状態の良好さ等によって、北ヨーロッパの新石器時代の文化水準を窺い知ることに大きく寄与している点などが評価された。
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セント・キルダ(イギリス)

イギリス領の孤立した群島。北大西洋、ノース・ウイスト島の64km西北西にある。スコットランド、アウター・ヘブリディーズの最西端の島々である。最大の島はヒルタ島で、イギリスで最も高い、海岸に面した断崖絶壁がある。その他はダン島、ソアイ島、ボーレー島である。これらの島は家畜の放牧や海鳥の猟が行われていた。 セント・キルダには少なくとも2000年間、人が暮らしてきた歴史があり、人口はおそらく180人を超えることはなかっただろう(1851年以降は100人を切った)。1930年、4島のうち唯一の有人島であったヒルタから住民全体が避難した。
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キューガーデン(イギリス)

イギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。
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マテーラの洞窟住居と岩窟教会公園(イタリア)

サッシ(石・岩を意味するサッソの複数形)は、マテーラにおいて洞窟住居を意味する。マテーラのあるグラヴィナ渓谷は石灰岩の侵食により形成され、渓谷にはこのサッシが何層にも重なって存在している。このサッシがいつ頃から作られたかは不明だが、8世紀から13世紀にかけて、東方からイスラム勢力を逃れた修道僧が住み着き、130以上の洞窟住居を構えていたといわれている。マテーラ周囲からは、旧石器時代の出土品も発見されているため、かなり古くから人々が住んでいたと考えられている。
長らく小作農民の住居であったサッシは、南イタリアの貧しさの象徴的な見方がなされた。19世紀までは比較的快適な住環境であったが、20世紀初頭より、人口が急速に増加し、元々は畜舎であった採光も水の流れも劣悪な洞窟も住居として使用されるようになった。そのため衛生状態も極度に悪化し、乳児の死亡率は50%に達した。 行政当局としてもこの状態を放置できなくなり、1950年代に法整備を行い、これにもとづきマテーラ郊外に新たな集合住宅を建設し、サッシ地区の住民を強制的に移住させた。その数は約1万5千人に上る。 この結果、サッシ地区は無人の廃墟と化す。しかし150以上の石窟聖堂や 3000戸ほどの洞穴住居、地下水路で各戸の貯水槽に上水を供給するシステムなど、ユニークな文化的資産が見直され、1993年にユネスコの世界文化遺産に指定された
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カステル・デル・モンテ(イタリア)

イタリア共和国南部のプッリャ州アンドリアの郊外にある中世の城。13世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)によって建築された。八角形を象徴的に取り入れた設計
建造者であるフリードリヒ2世のイスラム教への理解を示すかのごとく、築城の位置は当時のキリスト教の拠点であるシャルトルとイスラムの中心メッカとの2点を結ぶ直線上の地点に立地している。
丘の上にぽつんと立つ美しい城で、フリードリヒ2世の数学へ造詣を表す黄金比を用いた八角形を象徴的に取り入れており、全体が八角形の平面で構成され、中央に八角形の中庭を内包し、8つのコーナーにはそれぞれ八角形の小塔がそびえる。
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モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場(イタリア)

イタリア・モデナにある大聖堂。ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つ。大聖堂建設は1099年に主任建築家ランフランコの指揮下で始められた。大聖堂は、モデナの守護聖人聖ジェミアヌス(イタリア語では聖ジミニャーノ)の墓の役割を持っていた。5世紀から同じ場所にはかつて2つの教会が建てられ、どちらも破壊されていた。聖人の遺物は今も大聖堂内の納骨堂に展示されている。
市民の塔:ギルランディーナないしギルランディーナの塔(Torre della Ghirlandina)は、イタリアのモデナ大聖堂に隣接する鐘楼である。高さ 86.12 mの塔の上からは市の周囲を一望でき、古くからモデナの主要なランドマークになっている。「市民の塔」(トッレ・チヴィカ、Torre Civica)の名前でモデナ大聖堂などとともに世界遺産に登録されている。
グランデ広場:ピアッツァ・グランデ(Piazza Grande, 大広場)ないしグランデ広場は、イタリアのモデナの歴史地区にある広場である。12世紀にモデナ大聖堂前に建造された広場で、現代的視点で見れば必ずしも「大きい」とはいえないが、中世の広場はもっと小さいのが常であったため、この名が残っている。1997年にモデナ大聖堂や、それに隣接する鐘楼であるギルランディーナとともに、ユネスコの世界遺産リストに登録された。
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レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(イタリア)

ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いた。
完成は1498年。 ヨハネ福音書に登場する一場面として、弟子の裏切りを予言するイエス・キリストと、それを受けて動揺する弟子たちの様子を、それまでに無い写実性をもって表した、縦4m・横9mの巨大なテンペラ画である。
一点透視図法が用いられ、あたかも絵の奥のほうまで食堂がつながっているかのような錯覚を観る者に起こさせる、いわゆる錯視的演出が施されている。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、ゴシック様式の聖堂を備えている。この聖堂はドミニコ会の修道士ソラーリによって1466年から1490年の間に建立されたといわれている。係る修道院も、ルドヴィーコ・スフォルツァの命によって改修され、回廊などが付け加えられた。
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フィレンツェ歴史地区(イタリア)

歴史的な町並みが広範囲かつ集中的に保存されており、ルネッサンスの芸術、文化を眼前にみることができる。フィレンツェは屋根のない博物館とも表されるほど、稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残る。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
ヴェッキオ宮殿
ウフィツィ美術館
ピッティ宮殿
ボーボリ庭園
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
サンタ・クローチェ聖堂


ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群(イタリア)

イタリア北西部のリグーリア海岸にある5つの村を指す。険しい海岸に色とりどりの家屋が並ぶ文化的景観によって知られており、ポルトヴェーネレや小島群などと共にユネスコの世界遺産に登録されている。また、チンクエ・テッレはワインの産地としても知られる。
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アマルフィ海岸(イタリア)

イタリア南部のソレント半島南岸、アマルフィ一帯(カンパニア州サレルノ県北西部)のサレルノ湾に面した海岸を指す名称。「世界一美しい海岸」と言われる景勝地
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バチカン市国(イタリア)

バチカンはテベレ川の西側に位置し、カトリックの総本山として知られる。前述のとおり、バチカン全域が世界遺産として登録されている。また、イタリアの世界遺産物件であるローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂と隣接している。
サン・ピエトロ大聖堂
バチカン宮殿
バチカン美術館


ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア)

イタリアのローマおよびバチカンにあるユネスコの世界遺産の登録物件。登録は1980年で、ヴェネツィア広場を中心としたエリアが登録されている。1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されている。また、同じく世界遺産に登録されている「バチカン市国」とも隣接し、こちらと一体となった保全活動が実施されている。
フォロ・ロマーノ
コロッセオ
コンスタンティヌスの凱旋門
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
カラカラ浴場


チレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園(イタリア)

サレルノ県内の36,000ヘクタールに1991年に設立された。その後拡大され、約180,000ヘクタールとなった。 現在では県南部の、北はセーレ平原から、東と南はバジリカータ州まで、西はティレニア海に至る。8の山岳共同体と80のコムーネの領域の全てまたは一部が含まれる。
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青の洞窟(イタリア)


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アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群(イタリア)

イタリア中部のスバジオ山(モンテスバジオ、標高約1,300m)の斜面に広がる人口2万人強の小さな町であるが、フランシスコ会の創立者アッシジのフランチェスコが生まれたことで有名で、カトリック教会の巡礼地として人気がある。また、町の建物は、ここで掘り出される薄いピンク色をした石材からつくられ、町を彩っている。
イタリア地図


ピサのドゥオモ広場(イタリア)

世界遺産に登録されたのは、1987年。ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名。
ピサのドゥオモ広場は、ピアッツァ・デイ・ミラーコリ (Piazza dei Miracoli) やカンポ・デイ・ミラーコリ (Campo dei Miracoli) とも呼ばれ、奇跡の広場という意味である。
イタリア地図


キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院(ウクライナ)

ロシアへのキリスト教普及に多大な貢献をなしたとともに、キエフ・ルーシの繁栄を今に伝える聖ソフィア大聖堂、キエフ・ペチェールシク大修道院などを対象とする
ウクライナ地図


タリン歴史地区(エストニア)

タリンは1219年以来デーン人によって建設され、1346年ドイツ系ドイツ騎士団、1583年スウェーデン、1710年ロシア帝国と支配者が交代した。
旧市街にはトームペア城を始め、大聖堂、聖霊教会、聖ニコラス教会、アレクサンドル・ネフスキー教会、城壁などが残る。
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ザルツブルク市街の歴史地区(オーストリア)

ドイツとの国境に近い、オーストリア北西部ザルツブルク州の州都ザルツブルクに所在する。
紀元前より岩塩の交易によって栄えてきたこの町は、「ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されてきた。中世において塩は、「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なものであった。9世紀には司教座が置かれて宗教都市として栄え、ザルツァッハ川左岸の旧市街には、教会や歴史的建造物が数多く建てられ、「北のローマ」あるいは「北のフィレンツェ」と称された。
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ウィーン歴史地区(オーストリア)

オーストリアの首都ウィーンは、古代ローマ時代からの歴史を持ち、その旧市街には様々な時代に立てられた様々な建築様式の建造物群が現存する。世界遺産の登録に当たっては、特にバロック時代以降の優れた建造物群や19世紀の都市計画の成果などが評価されたほか、近世以降「音楽の都」としてヨーロッパ文化史上で重要な役割を果たしたことなどが評価された。
オーストリア地図


ゼメリング鉄道(オーストリア)

首都・ウィーンの南西にあるゼメリング峠を通る、世界初の山岳鉄道。
グロッグニッツ駅から途中ゼメリング駅を経由し、ミュルツツーシュラーク駅に至る。世界初の山岳鉄道として知られるが、他山岳鉄道同様、走行時の地勢の険しさや高低差も特筆に値する。ヨーロッパで最初に国際標準軌を採用した鉄道であり、鉄道自体も今なお稼働している。走行距離は全長41.825キロ、高低差は460メートルになる。建設期間は1848年から1854年までの6年間である。
オーストリア地図


グラーツ市街 - 歴史地区とエッゲンベルク城(オーストリア)

オーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。人口は約25万人。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、グラーツ=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。
1999年に街の中心部がグラーツ歴史地区として世界遺産に登録された。2003年の欧州文化首都。
2010年にエッゲンベルク城が拡大登録されるとともに、登録名称も変更された。
オーストリア地図


スホクラントとその周辺(オランダ)

オランダ フレヴォラント州の干拓地北東ポルダー内にある、元はゾイデル海に浮かぶ島であった場所。アイセル川の河口の北、北東ポルダーの南部にあたる部分に南北に細長く延びている。
島の住民は独自の方言や文化を育んでいたが、高潮で危険であるとして19世紀に放棄された。1942年には、ゾイデル海開発の一環となる北東ポルダー干拓工事によって陸続きとなり、島でなくなった。しかし、低い干拓地の中に若干盛り上がった場所があることから、かつて島であったことがうかがえる。また、Middelbuurt 集落のあった場所には、水際の擁壁の一部が昔のまま残っている。
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アムステルダムの運河(オランダ)

「北のヴェネツィア」と呼ばれる都市のひとつであるオランダの憲法上の首都アムステルダムは、100km 以上の運河と、約90の島々、そして1500もの橋から成り立っている。 3つの主要な運河であるへーレン運河 (Herengracht)、プリンセン運河 (Prinsengracht)、ケイザー運河 (Keizersgracht) は、いずれもオランダが黄金時代を迎えていた17世紀に掘られたもので、都市の周りを同心円状にめぐっている。それらは「グラクテンゴルデル」(grachtengordel, 直訳は「運河のガードル」)として知られ、主要な運河沿いには実に1550もの記念建造物群が存在している。ヘーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河、ヨルダーン地区などを含む17世紀の環状運河地区は、2010年にUNESCOの世界遺産リストに登録された。
オランダ地図


パフォス(キプロス)

現在のパフォス市およびその近郊に位置する、新旧両方のパフォスの古代遺跡群を指す。これらが一括して文化遺産「パフォス」として登録された。
キプロス地図


トロードス地方の壁画聖堂群(キプロス)

トロードス山脈に残るギリシャ正教の9ないし11(後述)の聖堂と1つの修道院が対象となっている。いずれの聖堂・修道院も、ビザンティン様式の美しいフレスコ画が残っていることが評価されたものである。聖堂内部を埋め尽くすかのように、壁や天井に描かれたそれらの壁画は、コムネノス朝時代からビザンティン帝国滅亡後に至るまで、長い期間に蓄積されてきたものである。
登録対象はトロードス山脈に点在し、地方行政区分上はパフォス地区、ニコシア地区、リマーソル地区にまたがっている。
キプロス


バッサイのアポロ・エピクリオス神殿(ギリシャ)

古代アルカディア地方の遺跡で、現在のギリシャのメッシニア県北東部(キパリシア(Kyparissia)の北東、Andritsainaの南、メガロポリ(Megalopoli)の西)にある。「バッサイ」は「岩々の小さな谷間」を意味する。紀元前5世紀半ばのアポロ・エピクリオス神殿が、良好な保存状態で残っていることで知られている。
この神殿は古代ギリシャの主要なポリスからは地理的に離れているが、変わった特色を多く持っていることから、古代ギリシャの神殿の中では最も良く研究されている部類に属する。そして、バッサイのこの神殿は、ギリシャの世界遺産の中で最初に登録されたものである。 その建造は紀元前450年から紀元前425年に位置付けることができる。
アポロ・エピクリオス神殿はアポロ・エピクリオス(「加護を与える神アポロ」)に奉献されたものである。『ギリシャ記』を記したパウサニアスは、建造した人物としてヘファイストス神殿やパルテノン神殿を手がけた建築家イクティノスの名を挙げている。 パウサニアスは、この神殿を称賛し、その石の美しさと建設の調和によって、テゲア(Tegea)のアテナ神殿を除く全ての神殿を凌駕すると述べている。 この神殿はコティリオン山の中腹、海抜標高1131 m のところに建てられている。
ギリシャ


デルフィの考古遺跡(ギリシャ)

デルポイ( Delphoi)は、古代ギリシアのポーキス地方にあった都市国家(ポリス)。パルナッソス山のふもとにあるこの地は、古代ギリシア世界においては世界のへそ(中心)と信じられており、ポイボス・アポローンを祀る神殿で下される「デルポイの神託」で知られていた。古代デルポイの遺跡はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
日本語では「デルフォイ」「デルファイ」と表記されることも多い。英語表記(Delphi)や現代ギリシア語発音に基づく「デルフィ」も用いられる。遺跡の西にはデルフィの名を持つ集落があり、また遺跡を含む自治体の名前にもなっている。
デルポイはギリシア最古の神託所である。デルポイの神託はすでにギリシア神話の中にも登場し、人々の運命を左右する役割を演じる。デルポイの神託が登場する神話には、オイディプス伝説がある。
神がかりになったデルポイの巫女(シビュッラ)によって謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。また時には賄賂を使って、デルポイの神託を左右する一種の情報戦もあったといわれる。デルポイに献納する便のために、ギリシアの各都市はデルポイに財産庫を築いた。これは一種の大使館の役割を果たしたとも考えられる。
ギリシャ


アテネのアクロポリス(ギリシャ)

パルテノン神殿(ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。
神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯(en)は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。
ギリシャ


アトス山(ギリシャ)

ギリシャ北東部・エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。その周辺は正教会の聖地となっており、「聖山」(英: Holy Mountain)の名でも呼ばれる。アトス山周辺には現在20もの修道院が所在し、東方正教の一大中心地である。「アトス山」の名は、聖地となっている半島の全域や、修道士たちの共同体についても用いられることがある。
ギリシャ共和国の領内ではあるが「聖山の修道院による自治国家」として大幅な自治が認められており、いわば「宗教共和国」ともいえる存在となっている。1988年にはユネスコによって世界遺産に認定された。
ギリシャ


メテオラ(ギリシャ)

ギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に指定されている。その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。
ギリシャ


テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群(ギリシャ)

古代にテルマと呼ばれたテッサロニキは、天然の良港と街道を有する交易都市であった。カッサンドロスによってテッサロニケと改名され、さらに共和制ローマに占領された後も、ローマ属州マケドニアの首府として繁栄を続けた。50年、使徒パウロはこの町のシナゴーグでキリスト教を布教したが、ユダヤ人に告発され、退去したとされる。ローマ帝政時代、テッサロニケは国際都市の様相を呈しており、様々な民族や宗教が混在していた。ローマ帝国後期になると、ガレリウスによって凱旋門と霊廟が建設され、港湾はコンスタンティヌス1世によって拡張された。また、テオドシウス1世は、後にテッサロニケを破局から守る市壁を整備した。

ロトンダ
ガレリウスによって霊廟として建設されたものだが、彼がセルディカで歿した後に放棄された。後に聖ゲオルギオスの教会堂として献堂されてキリスト教の聖堂となり、その当時作成されたモザイクが残る。オスマン帝国の時代には、さらにモスクとして利用され、その時にミナーレが建設された。現在は無宗教の美術館となっているが、1978年の地震以降、現在も修復が行われている。

アヒロピイトス(アケイロポイエートス)聖堂
名称は「人の手でつくられたのではない」の意味で、同名の聖像にちなむものである。初期キリスト教建築の中でも最も古い教会堂の一つで、5世紀中期に建設された。側廊に2階のあるバシリカ。内部の装飾は残っていない。現在は無宗教の博物館として公開されている。

アギオス・ディミトリオス聖堂
テッサロニキの守護聖人聖デメトリオスに献堂されたバシリカで、彼が致命したとされる共同浴場の竃を囲むように建設された。ギリシャ共和国で最も大きなギリシャ正教会の聖堂である。1917年に火災に遭い、焼け落ちてしまったが、できる限り元の材料を使用して再建された。6世紀から7世紀かけて作成されたモザイクが残っている。テッサロキで最も崇拝される聖堂である。

アギア・ソフィア聖堂
ギリシャ国内で、東ローマ帝国の暗黒時代に建設されたものとしては唯一残る教会堂。7世紀中期の創建で、円蓋式バシリカと呼ばれる平面を持つ。ドームに9世紀頃の、アプスに12世紀頃描かれたモザイクが残る。オスマン帝国の時代はモスクとして使われたが、現在はキリスト教の聖堂となっている。

オシオス・ダヴィット聖堂
ラトモス修道院の中央聖堂だった建築物で、内接十字型とよばれる平面の聖堂だったが、今日ではその東半分のみが残る。アプス部分にモザイクが残る。

パナギア・ハルケオン聖堂
銅細工師の至聖女と呼ばれる聖堂であるが、本来の呼称は伝わっていない。1028年に創建された4円柱式内接十字型の聖堂。外面に装飾に対する意識が見られる。現在も正教会の聖堂として利用されている。

アギイ・アポストリ聖堂
1314年にコンスタンティノポリス総主教ニフォンによって建設された。4円柱式内接十字型の平面をナルテクスが取り囲む末期ビザンティン建築の特徴を持つ。内部にイスタンブルのコーラ修道院に類似するフレスコ画が残っている。諸使徒聖堂の意。

アギオス・ステファノス・オルファノス聖堂
見栄えのしない小さな聖堂だが、末期ビザンティン建築のすばらしいフレスコ画が残る。フレスコ画は14世紀初期の作品と考えられる。

ギリシャ


ロドスの中世都市(ギリシャ)

ロドス島の主都ロドスの旧市街には、かつて聖ヨハネ騎士団が築いた城塞都市の特質が良好に保存されており、中世ヨーロッパ都市の優れた例証として評価された。
ギリシャ


ミストラスの考古遺跡(ギリシャ)

ギリシア・ペロポニソス半島南東部のラコニア県にある中世城塞都市遺跡。東ローマ帝国の地方行政組織モレアス専制公領の行政府・文化都市で、ユネスコ世界遺産に登録されている。日本では西欧の文献で長く用いられた表記を採用して「ミストラ」(Mistra)と記す場合も多い。 また、ミストラスは遺跡付近の集落の名でもあり、遺跡周辺を含む自治体の名でもあった。行政区画の再編により、現在はスパルティ市の一部となっている。
【聖堂・修道院】
府主教座−アギオス・ディミトリオス聖堂
 スパルタ−ラケデモニア府主教座がここにあったのでこの名で呼ばれる。もともとはバシリカ様式で建てられたが後に上部にギリシア十字・ドーム建築を増設した特異な複合建築、通称「ミストラス様式」の建物となる。併設された僧房は現在博物館となっている。

オディギトリア聖堂
  別名アフェンディコ聖堂。オディギトリアとは「導きの主」を意味する生神女マリアの異称。アギオス・ディミトリオス聖堂とは逆にギリシア十字・ドーム聖堂として建築された後改築されてミストラス様式となる。ヴロンドヒオン修道院主聖堂で多数の付属施設(食堂、僧房、埋葬堂他)。

パンダナサ修道院聖堂
 1428年、ヨアニス・フランゴプロスによる建立。パンダナサとは「世界の女王」を意味する生神女マリアの異称。初めからミストラス様式で建設。現在も女子修道院としてミストラスで唯一活動。『ラザロの復活』『イェルサレム入城』といった福音書題材の連作など、多数のフレスコ画が比較的状態良く残る。人間描写が深まり、後のイタリア・ルネサンスのはしりともいわれる。

アギア・ソフィア聖堂
 ゾオドトス・ピギ(生命の泉)修道院の聖堂(専制公宮殿付聖堂)と推定される。ギリシア十字・ドーム聖堂。

ペリヴレプトス修道院聖堂
 14世紀中頃の建立。市街の南の外れ、丘をくり抜いて建てられた聖堂。内部はパンダナサと並ぶ多数の傑作フレスコ画がある。

アギイ・セオドリ聖堂
 ヴロンドヒオン修道院の聖堂。1295年頃の建立。ミストラスに現存する最古の聖堂で、唯一の八角形ギリシア正十字聖堂(同じく世界遺産のダフニ修道院聖堂と同一の形式)。壁画はほとんど現存せず。

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オリンピアの考古遺跡(ギリシャ)

ギリシアのペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシアの都市。古代オリンピックが行われた場所であり、現在も数多くの遺跡が存在する。1989年世界遺産に登録された。古代ギリシア語の発音に沿い「オリュンピア」とも転記される。
古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀にまでさかのぼる。伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが争いをやめ競技会を復活せよと言うアポロンの啓示を受けた事に由来すると伝えられている。これがゼウスへの奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡って行われたが、394年にローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により廃止された。競技会の発端となる「競技会を復活」と言う啓示のくだりは過去にも競技が存在したそれを示唆するものと考えられ、実際の競技の開始はもっと早かったのではと見られている。
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デロス島(ギリシャ)

エーゲ海・キクラデス諸島に所在するギリシャの島。古代ギリシャにおいて聖地とされた島で、ヘレニズム文化の宗教的・芸術的・商業的な中心地として栄えた。島内には遺跡が数多く残っている。歴史的にはデロス同盟が結ばれたことで知られている。
ギリシャ神話によればアポローンとアルテミスはこの島で生誕したとされる。女神レートーはデロス島のキュントス山(Mount Kynthos)でアポローンを産んだという。
主な遺跡
コンピターレスのアゴラ(Agora of the Competaliastae)、アポローン神殿、アルテミス神殿、ライオンの回廊、デロスの神殿
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ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院(ギリシャ)

ギリシャ共和国にあるユネスコの世界遺産(文化遺産)。東ローマ帝国の時代に建設されたギリシャ正教(正教会)の3つの修道院から構成される。1990年に世界遺産として登録された。
登録名に列記されている3つの修道院は、地理的には大きく離れた場所に所在しているが、いずれもビザンティン時代中期に建設された修道院である。これらの修道院の中央聖堂(カトリコン)をはじめとする主要な建物は、中期ビザンティン建築に特徴的なスクィンチ式教会堂の形式で建てられている。またギリシャ共和国において、11世紀に作成されたモザイクが残されているのはこの3つの修道院のみである。ネア・モニ以外の修道院については、建設の過程はほとんど知られていない。
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サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿(ギリシャ)

ギリシャの世界遺産の一つである。紀元前6世紀に栄えた都市国家サモスの往時の姿を伝える遺跡群が登録されている。
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アイガイ(現代名ヴェルギナ)の考古遺跡(ギリシャ)

ギリシャ共和国の中央マケドニア地方に属する町。テッサロニキから南西に80km、ピエリア山の山麓に位置する。人口は約2,000人。古代マケドニア王国の首都アイガイ(現代ギリシャ語の発音ではエゲ)とされる遺跡が存在し、1996年にユネスコの世界遺産に登録されている。
古代マケドニア王国の都アイガイとして栄えた。都は前5世紀末にペラへと遷されるが、引き続き王国の中で重要な地位を占めた。この街でピリッポス2世(フィリッポス2世)はパウサニアスによって殺害されたとされる。
1977年町に存在する遺跡が、ギリシャの考古学者マノリス・アンドロニコスによりマケドニア王ピリッポス2世の墓であると主張されたことで有名となった。事の真偽はいまだ明らかとなっていないが、ヴェルギナの遺跡が考古学上重要な位置を占めていることは確かである。
フィリッポスの骨を納めた納骨箱であるとアンドロニコスが断定した黄金の箱には光線を有した星の模様が描かれていた。この模様はヴェルギナの星と呼ばれ、古代マケドニアの象徴とされるようになった。
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ミケーネとティリンスの古代遺跡群(ギリシャ)

ミケーネはギリシャ・ペロポネソス地方アルゴリダ県の都市。ペロポネソス半島東部に位置する。1872年に、ハインリッヒ・シュリーマンによって遺跡が発掘され、古代ギリシア以前の文明が発見された。これは、この地の名をとってミケーネ文明と呼ばれる。
近隣の都市としては、約30キロ北東にコリント、10キロ南にアルゴスが位置している。
ミケーネの遺跡は、獅子門、円形墳墓A、王室、アトレウスの墳墓が有名で、そのいずれも巨大な切り石を用いた建築である。ミノア文明のものに比べ、これらは非開放的で求心的、かつ重装備である。
ギリシャ


神学者聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟を含むパトモス島の歴史地区(ホーラ) (ギリシャ)

ギリシャの小島パトモスの中心市街ホーラは、丘の上に立つ神学者聖ヨハネ修道院を外敵から守るべく要塞化した町である。
世界遺産への登録に当たっては、この場所が正教会の重要な巡礼地となってきたことや、聖ヨハネが福音書や黙示録を執筆したことにまつわると伝えられる場所が残っていることなどが評価された。なお、一連のヨハネ文書を執筆したのが全て聖ヨハネかどうかについては議論もあるが、世界遺産登録では伝統的な見解が踏襲されている。
神学者聖ヨハネ修道院
1080年に、東ローマ帝国コムネノス王朝のアレクシオス1世は、正教会のクリストドゥーロスにパトモス島を下賜した。これがきっかけとなり、1088年から丘の上に神学者聖ヨハネ修道院の建造が行われた。
カトリコン(Katholikon, 身廊)、中央教会、資料館、聖マリア礼拝堂などからなる修道院で、周辺を黒みがかった城壁に囲まれている。16世紀になると、創立者クリストドゥーロスの聖遺物を納めたクリストドゥーロス礼拝堂も建てられた
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ケルキラ旧市街(ギリシャ)

ギリシャ北西部のイオニア諸島・ケルキラ島にある都市。イタリア語・英語名称での「コルフ」でも知られている。ケルキラ島(コルフ島)の主要都市であると同時にケルキラ県(コルフ県)の県庁所在地である。
ヴェネツィア共和国領だったときから重要な地位を占め、今では一大観光地となっている。複数の城を持つこの都市は、「カストロポリス」(Kastropolis, 城塞都市)としても知られている。
ギリシャ


(ギリシャ)


ギリシャ地図


(グルジア)


グルジア


(クロアチア)


地図


(サンマリノ)


地図


(スイス)


地図


ターヌム(スウェーデン)


地図


グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン(スペイン)


スペイン


トレド(スペイン)

スペイン中央部の都市。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都で、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。
かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。

トレド大聖堂
アルカサル
エル・グレコ美術館(Museo de El Greco)
サント・トメ教会(Iglesia de Santo Tome)
トランシト教会(Sinagoga del Transito)
サンタ・マリーア・ラ・ブランカ教会 (Santa Maria la Blanca)
サン・フアン・デ・ロス・レージェス修道院 (Monasterio de San Juan de los Reyes)
エル・クリスト・デ・ラ・ルス(Cristo de la Luz)
サンタ・クルス美術館(Museo de Santa Cruz)
タベーラ病院(Hospital de Tavera)
プエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol、太陽の門)
ローマ劇場跡(現在は公園)


アルタミラ洞窟(スペイン)

スペイン北部、カンタブリア州の州都サンタンデルから西へ30kmほどのサンティリャーナ・デル・マル近郊にある洞窟。ユネスコの世界遺産に登録されているアルタミラ洞窟壁画で知られる。
アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で主にマドレーヌ期(約18,000年 - 10,000年前)と呼ばれる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物を中心とする壁画である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
壁画は、ソリュトレ期に属する約18,500年前頃のものと、マドレーヌ期前期頃の約16,500年前〜14,000年前頃のものが含まれる。約13,000年前に落石によって洞窟の入り口が閉ざされたと考えられ、これにより幸運にも壁画は外気から遮断され、理想的な環境下で保存されることになった。
スペイン


アントニ・ガウディの作品群(スペイン)

バルセロナにあるアントニ・ガウディの建築作品
アントニ・ガウディ(1852年 - 1926年)は古今東西の折衷様式を唱えたモデルニスモの代表的建築家として知られる。アントニ・ガウディは26歳の時、パリの博覧会に出品したのをきっかけに大富豪、エウゼビ・グエイ(スペイン語読みはエウゼビ・グエル)と出会う。これが元で世界遺産の題名の一部となったグエル公園(パルケ・グエル)、グエル邸(パラシオ・グエル)の設計・建築を依頼されこれらを建設した。この後、ガウディはバルセロナ中の富豪から設計の依頼が来るようになった。

グエル公園
グエル邸
カサ・ミラ
カサ・ビセンス
サグラダ・ファミリアのご生誕のファサードと地下聖堂
カサ・バトリョ


セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館(スペイン)

セビリア大聖堂とは、スペインのセビリアにあるカテドラルである。スペイン最大の、世界では3位の大きさの大聖堂と紹介されている。 ちなみに1位はローマのサン・ピエトロ大聖堂、2位はロンドンのセント・ポール大聖堂である。ギネス世界記録認定に限っていえば世界一ともいえる。
レコンキスタ以前はこの地には巨大なモスクが立っていたといわれている。 隣接するヒラルダの塔 (en)はかつてはモスクの尖塔(ミナレット)であった。モスクを破壊したあとに教会が建てられているが、建物自体にモスクの名残がいくつかみられる。例えば、免罪の門から入った場合は教会に入る前に中庭が存在するといったところである。 見所としてはコロンブスの墓などがあげられる。
スペイン


ガラホナイ国立公園(スペイン)

スペイン・カナリア諸島の西部、ラ・ゴメラ島島頂部に位置する国立公園である。 国立公園の区域内には、マデイラ島の照葉樹林と並んで、マカロネシアを代表する照葉樹林(遺存型照葉樹林)が分布する。
スペイン


ビルバオ(スペイン)


スペイン


プラド美術館(スペイン)

スペイン



(スロバキア)


地図


(スロベニア)


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(セルビア)


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(チェコ)


地図


(デンマーク)


地図


ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場(ドイツ)

ヴュルツブルクにある大司教の宮殿。18世紀にバルタザール・ノイマンによる設計バロック建築様式を代表する、ヨーロッパでも屈指の宮殿である。 建物内には様々な部屋があるが、中でも有名なのは「階段の間」であり、柱の無い広大な吹き抜けに、画家ティエポロの描いた、世界で一番大きいフレスコ天井一枚画がある。この吹き抜けは、当時としては常識外れの設計で、「設計ミス」「絶対に崩れる」などと酷評されが、ノイマンは「砲弾を打ち込まれても崩れない」と反論、事実、第二次世界大戦の空襲でここだけ天井が残った。その頑丈さには、建材に軽くて丈夫で耐火性がある凝灰岩を使ったからである。また、レジデンツの裏にはホーフ庭園が広がる。
ドイツ


ヴィースの巡礼教会(ドイツ)


ドイツ


ライン渓谷中流上部(ドイツ)

ラインラント=プファルツ州の都市であるコブレンツとビンゲン・アム・ラインの間のライン川の65キロメートルの渓谷のことを指す。登録範囲は、272.5平方キロメートル及び緩衝地帯は、約346.8平方キロメートルに及ぶ。
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(トルコ)


地図


(ノルウェー)


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(バチカン)


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(ハンガリ)


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(フィンランド)


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(フランス)


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(ブルガリ)


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(ベラルーシ)


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(ベルギー)


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(ボスニア・ヘルツェコビナ)


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(ポーランド)

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(ポルトガル)


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(マケドニア)


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(マルタ)


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(モルドバ)


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ドゥルミトル国立公園(モンテネグロ)


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(ラトビア)


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(リトアニア)


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(ルーマニア)


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(ルクセンブルク)


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(ロシア)


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